デザイナー「山野英之」インタビュー

2025.08.12

藍と墨で描くアートは
日常を慈しむためのフレーム

2025年9月4日(木)〜9月14日(日)までの8日間(休廊:月,火,水)、デザイナー・山野英之によるソロエキシビジョンを開催します。

書籍や広告、ブランドロゴ、建築サインなど、多くのデザイン分野で活躍し続ける山野英之さんですが、その一方、ユニークな視点とセンスを活かした作家活動も知られています。

興味深いのは、作品展のたびに作風が大きく変化すること。

「これぞ山野英之作品だ」と思われることを敢えて避けているのか、それとも一つの枠に収まることができない好奇心の塊なのか、開催ごとに印象を大きく変える彼の作品は多彩なファンを魅了しています。

コロナ禍の直前に東京と沖縄の二拠点生活をスタートさせた山野さんが、この5年半を費やして眺め、蓄積した思考を表現したものが今回のシリーズ。年内には次の土地〜奈良への転居を決めた作家の“今”を、ご覧いただけたらと思います。

那覇のアトリエでの山野さん。奈良に生まれ、京都の大学に学び、1997年に東京に居を移して長い時間が経ったけれど、静かでやわらかな関西弁はそのまま。

 

沖縄・首里城のほど近く、むせかえるような夏の熱気が漂う住宅街にある古びた平屋の一軒家が、山野英之さんの沖縄のアトリエでした。2020年から東京と沖縄での二拠点生活をスタートさせて5年半。淡々と仕事や制作の時間を過ごしてきた場所は、訪ねてみると思いのほかシンプルで、アーティストというのは日々さまざまな思考や試作を行うのに、こんなにもモノが少ないんだなと意外に感じたのでした。ところが山野さんは言います。

「僕は長くデザイナーとして働いてきたので、やはりその習性みたいなものが体に根付いている。なので、自らをアーティストとは思っていないんです。境界を特に意識せずに、仕事で溜まった澱やアイデアを、また別の形で表現したくなる時があって」(山野さん)

なるほど、今回山野さんに話を伺うにはまず、デザイナーとアーティストの間にある違いの定義付けが必要なのかもしれません。

「山野英之」の名前を知らないという人も、実はいろいろな場所で彼の作品は目にしているはずです。学生時代からデザインの現場に携わるようになり、音楽シーンや書籍のエディトリアルデザイン、建築のジャンルでもその才能を発揮してきた人。手がけた書籍や著名な建築物内部に設けられたサイン、ブランドのロゴなど、世間に親しまれている山野さんの作品は数多く、そのいずれもがあまりにも自然に社会に溶けてしまっているあたり、デザイナーとして優れた才能の持ち主であることを物語っています。

「デザイナーというのはクライアントやお題があって初めて成立する仕事だと思っています。僕が手がけるデザインのジャンルは様々ですが、いずれも自分の表現というよりも、例えるなら、文章の要点が読み手の頭にすんなり入るように、あるいは建物の中でトイレに行きたい人に、その場所がさりげなく示されるようなきっかけを、自分のフィルターを通して導くようなものではないか。そう考えています」(山野さん)

 

世界に「フレーム」を与えるデザイナーという仕事

アトリエの隅には「文机」と呼ぶほかない趣のある卓があり、上には作業中の道具や絵が広げられていた。どことなくそんな様も、整然とモノを並べずにはいられない山野さんの性格を感じさせる。

 

ただ、今回のインタビューを通じてとても興味深いと思ったのは、そんな山野さんが「クリエイティブのバランスを保つために、個人制作としての表現活動が意味を持つ」と語ってくれたことです。いわば、デザインの現場で日常行っている整理・検証・協働・着地というプロセスが、表現を試みるときにも意外に役立っているということ。そして、そんな2つのポジションを持つ山野さんだからこそ、彼の作家としての活動がユニークなものであり、他と一線を画すキャラクターを作品に与えているように思えるのです。

これまでに山野さんが発表した個人表現としての数々の作品群を振り返ると、デザイナーと表現者という2つの立場を有する人ゆえの個性が際立っています。私にとって印象的だったのは、「クソバッジ」展(2014)や「オノコノエ、ヴォエ ミソソカゲル、マリワカ」展(2020)など。どちらも、同じ作者による作品群とはにわかには信じられないほどに異なるテーマ設定であり、魅力でした。

例えば「クソバッジ」展は、最初あまりに強烈なネーミングに驚きましたが、そこには一貫した興味深い枠組みと試みがありました。“ゴミ”として消費されてしまうようなモノにピンを付けることで、新たにバッジとして生命を吹き込むというチャレンジ。それまでゴミだったものが、山野さんの視点を通じてセレクトされピンをつけられ、会場に整然と並べられた様はまるでジュエリーのようでした。実際に購入も可能で、訪れたゲストがワクワクした面持ちで好みのアクセサリーを選ぶように品定めをしている様子が印象に残っています。「クソ」と名付けつつもそこには、それが一瞬にして「商品」に生まれ変わることの意外性やワクワク感、ひいては、人間の価値観なんていかに脆く幻想的なものであるかを伝えてくれている、そう感じたのです。

コロナ禍に世界が沈み込んでいた2020年に開催された「オノコノエ……」展は、いただいた案内に添えられたビジュアルには大きく「画像はイメージです」というコピーが載せられていました。絵は主役ではなく「オノコノエ……」を含め20数点製作された“呪文”が今回のメインであるというのです。

???

意味がわかりません。年末の寒い東京、マスクで身を防護するかのようにして訪れた会場では、美しい音色を奏でるような色彩に溢れた絵のそれぞれに、"呪文"がタイトルとして与えられていました。久しぶりに会った山野さんは、「すべてが救われる魔法の言葉なんてあるのかな。そう思って今回の作品を考えました」と恥ずかしそうに話してくれたのでした。

展覧会ごとに作風やテーマが違うのですが、あぁ、これがデザイナー精神を持つ人による表現なのかと腑に落ちます。山野さんは、何をするにしてもフレームを設定するのが上手い人。いや、上手というよりは、そこに常人が気づかなかった枠組みを設けることで、世界の見え方がちょっと違ってきたり楽になる発想が得られたり、そういうことを仕事でも表現活動でも試みているのではないかと思ったのです。

 

子供時代の絵やノートにも山野スタイルが宿っていた

小学校低学年の頃に山野さんが描いた絵。右下にはこの作品のタイトル「時計の中」と、おそらく母親による丁寧な文字書きが添えられて。子供の絵ならではの自由さはありつつ、几帳面に守られたグレーの線による枠組みや色の置き方の規則性に、山野スタイルの発露が見られる。

 

飄々としているように見えて、失恋後の思いを癒やすために短編集執筆を試みたり(13編で完結する予定が5話目を書き終えたところで傷が癒えてしまい、未完とのこと)、夢中になって何かに取り組んでいたかと思ったら数年後には辞めてしまっていたり。山野さんというキャラクターがどんなふうに形成されたのかを聞いてみたところ、幼い頃に描いた絵を見せてくれました。

「奈良の実家を建て直すことになり、最近、荷物の整理をしているんですが、母親が僕や弟の子供時代の絵やノートを結構残してくれていて。自己の起源への疑問を心のどこかに感じつつそのままにしていたのですが、小学生時代に自分が描いた絵を見ると、今と変わらないものを感じます。後天的ではなく、そもそもこういう性分だったのかな、と。なんだか妙な納得感がありました」(山野さん)

溢れるような色彩遣いは同時におおらかさも感じさせ、常識や世間的な枠ではなく自らが一度無になってフレームを考案するという今の山野さんの創作姿勢を想起させます。一方、算数の計算ドリルや漢字練習帳などに見られる、子供にしてはあまりにも丁寧な几帳面さには、すでにデザイナーとしての才能の発露さえ感じさせます。そう言うと山野さんは照れ笑いを浮かべつつ、「今まで、厳しかった親の影響で自分の性格は作られたのだろうとぼんやり思っていたのが、それ以前から自然に形成されていたんだなと分かったことが面白くて。こういうものを残しておいてくれた親に感謝です」と言います。

 

モラトリアム学生から、飽き性のプロフェッショナルへ

インタビュー中も、ふと手持ち無沙汰になると机に向かってしまう山野さん。作品を見返したり発送作業の準備をしたり、子供のような落ち着きのなさも愛すべきキャラクターの一部なのだろうなと思わせる。

 

もう一つ、山野さんという表現者について語るときに外せないのが、彼が生来の飽き性であるということです。誤解のないように言えば、いい意味でいう「飽き性」です。京都での学生時代に関わっていた渋谷系音楽シーンの仕事は東京に移住してから数年後に一旦終了とし、次に雑誌社でエディトリアルデザインに従事。けれどそれも数年後に終了。次に建築分野の書籍デザインからサインやロゴマークのデザインを手がけるようになり……と、現時点でも「今度どうなるか、何をテーマに仕事をするか、自分でも分かってないし決めていません」と山野さん。しかし、学生時代から飽き性のプロフェッショナルとして知らず知らずに歩んできたからこそ、山野英之という不思議で個性的なデザイナーが誕生したといえるのではないかと思います。

「自分に甲斐性がないからでしょうが、ある程度までのめり込んで頑張って取り組んでいくうちに、できるようになってくると飽きるんです。そうなるともう、やり続けることに自分や相手に対する誠意のなさまで感じてしまうというか。ただ、例えばデザインのことでいえば、サインやロゴマークは、クライアントだけでなくその先の使い手である消費者や建物を訪れる人のためでもあるわけで、彼らにとっては分かりやすさと同時にある種の刺激も必要なので、そういう意味では僕の飽きっぽさもあながち役立たずってこともないかも」(山野さん)

山野さんがこれまで無意識のうちに大切にしてきたことが、ここに直結していると感じます。それは、見る人・使う人に無理強いをしないという視点。デザインの仕事でも表現者としての作品でも、そこに必ず何かしらの枠組みや共通言語を設けているのが特徴だと思うのです。「感性だけでわかる・わからない、という世界にしたくない」と山野さんは言いますがそこだけは一貫していて、一見度肝を抜かれたりするようなテーマだったとしても、すぐにそこに何かしらの入り口、ハシゴを見つけることができる、それが山野作品なのです。必ず寄り添ってくれる何かがある、役立ってくれる何かを示してくれる、そんなような。

 

クライアントワークではない表現に込めた思い

夏の那覇、外の気温と湿度はまるで亜熱帯。ただ、古い木造家屋の中からそれを眺めていると、時間の流れも止まってしまったかのような不思議な落ち着きを感じてしまう。こんな光景を見ながら、ぼんやりと豊かに過ごしているという山野さん。

 

最後に、今回の作品について聞いてみました。

「特に大きなテーマとして意識していたものはないんです。ただ、沖縄での二拠点生活に近い将来、区切りをつけることになりました。これからも沖縄には訪れますが、やはり暮らすという感覚はなくなるので、そういう意味では、その気持ちがきっかけになっているのかもしれません。沖縄に住むきっかけをくれた友人、描画用の藍を分けてくれる、和紙作ってくれる、絵に蜜蝋加工をしてくれる友人まで、みんな沖縄でのご縁です。でも、ご覧になる方には、僕の個人的な気持ちを伝えたいわけではなく、自由に見てもらいたいので、ものとしてどんな空間にも自然に合うサイズ感、存在感に仕上げています」(山野さん)

 

沖縄から奈良へ。常に誰かと自分のために


どこかのウェブサイトで、山野英之作品の特長として「スタイルがないこと」と書かれていました。私はそれを素晴らしいことだと感じます。というのも、それは決して没個性という意味ではなく、焼印のような作家性を極力抑えてあることで使う人、見る人の暮らしに難なく寄り添ってくれる存在であると示しているから。そして、長い時間をかけて集積されたそれらはまさに「山野スタイル」であるとも思うのです。

あらゆるクリエーション、あらゆるプロダクトを自在に行き来する旅人のような表現者、山野さん。沖縄での暮らしにピリオドを打って、次に二拠点生活の舞台に選んだのは奈良の実家だと言います。

81歳の母親が心地よく暮らせるよう、家をリフォームすることになりました。いわば彼女がクライアント。どうすれば居心地とデザインを同居させられるか、僕もそこに滞在することになるので、建築家の友人と試行錯誤しています」(山野さん)

山野作品の味わいの一つが優しさであることを、インタビューの最後に思い出しました。ぜひ初秋の「MIN GALLERY」で、そんな新作の数々をご覧いただけたらと思います。




Hideyuki Yamano - Exhibition of New Work

山野英之/HIDEYUKI YAMANO
1973年奈良県出身 京都工芸繊維大学大学院修了後、学生時代より参画していたデザイン集団「groovisions」の創業メンバーとなり上京。デザインや音楽の仕事に携わった後に退職し、マガジンハウス「relax」(現在休刊)のエディトリアルデザインに従事するためデザイン事務所「nana 」へ。2002年に独立、以降は書籍、広告、ブランドデザイン、建築サイン等を手掛ける。2009年「TAKAIYAMA inc. 高い山(株)」設立。


text by Mayuko Yamaguchi

 

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